人類の記録は文字が発明されるまで、身体性をともなった身振り、踊り、うた、祈りなどを経て主として口頭での伝承、芸能などへと集約されていったと思われる。この間は音声が優位にあり、呼びかけの要素が強かったに違いない。併せて視覚が他者の存在を主体的に観察する手段として発達してきたと想像される。
そして、ひもや石による文字の発明は記憶を受動的無意識の世界から意識化し、一気に視覚優位の現在に至る人類の文化が花開いたのだろう。紙の発明や印刷術がこの傾向を強化し、現在に至る文明の骨格にある知識の共有化が図られてきた。
20世紀に入り、ノイマンの発案による技術は人類の認識装置の奥底にある限界をあぶり出し、デジタル革命をもたらした。人類は聴覚にしろ視覚にしろ、生命の持つ連続した感覚の特性を獲得できないという限界をいろいろな生得的な道具で、これまでだまして認識に使用してきたが、ここへきてこのデジタル化で限界が露呈してきた。
人類が動物として、生命として獲得できる情報の技術はおそらく言葉や文字(書かれたもの)が最後でこれがすべてだろう。音楽や絵画はこれを補完する本来あるべき他者とのコミュニケーションの重要な突破口なのだろうが、言語を超えるものは見つかっていないし生物としての人類は新しい手段を獲得できないだろう。
文学の可能性はセマンティックな分野でひとつの人類だけに残された可能性かもしれないが、あまり期待できない気がする。あとは自然の力による人類という怪物の進化だけがたよりだが、想像がつかない。
「昭和史の一級史料を読む(保坂正康、広瀬順皓)」を読んでいて、口頭伝承の重要性を再認識するとともに、民俗学、考古学を超える手法の見当たらない現状に人類の限界を感じた。これからのデジタル時代はおそらく電子化された情報も胡散霧消して後の世代には何も残らないだろう。今回のエジプトのインターネット切断が数日でほぼ完全に実施された現実を前にして、統合された電子社会の真の恐ろしさを肌で感じた。